定期レポート2013年9月

ソフィア・アイ :若手人材は、なぜすぐに会社を辞めるのか?

 

「最近の若者」に感じる違和感は、いつの時代にもあるジェネレーションギャップと、 果たして同じなのでしょうか?

 

いい大学を出て一流の会社に就職したのに、すぐに退職してしまう
上司にちょっそ叱られると、すぐに泣く
「泣いてしまった」と、平気で他人に言う
ほんのちょっとした職場の軋轢を気に病んで、すぐに会社に来なくなってしまう
それを「メンタル不調」だと思い込み、また実際にそういう診断が出てしまう
同じことをしても、一昔前までは立派な躾だったものが、「パワハラ」になってしまう…

 

こうした数々の現象は、なぜ起こるのか?
この若者達には、すぐに躓きドロップアウトする、そういう何か精神的な“仕組み”が、 まるで遺伝子のように、予めインプットされているみたいです。

 

とりわけ、「自分(私)」という観念、これが、若者達の脳内で異常に膨張しています。
彼らの中には、予め「自分」がある。そして、それはとても大事なもの。他人に少しでも 侵入されたり、痛めつけられてはいけない聖域と決められているのです。
そのため、中年世代から見ると、気持ちが悪くすらある、あの「自分」を巡る数々の 言説も生まれてきます。
いわく、「自分探しの旅」、「頑張った自分にご褒美」………

 

一体「自分探し」とは、何なのでしょう。
探さなくてはならないということは、これまでの「君」は、そもそも何だったのか?
それは、旅をしたくらいで見つかるのか?
なぜことさら、そんなに「自分」を探したいのか?
要するに、彼らのこだわる「自分」とは、何か茫洋としていて得体の知れないもの、それを 共有しない者には理解が難しい観念的な存在なのです。

 

では、彼らに「自分探し」を強いているのは、何なのでしょう?
だれが、彼らにその奇妙な観念を植え付けたのか?

 

最近企業の人事マネージャーの方々と意見交換したところでは、その「真犯人」は、どうも 大手広告ベンダーに主導された就職活動文化にある可能性が濃厚ではないか、というのが、 かなり有力な仮説です。
それは、彼らが「就職マニュアル」において、学生をどう仕向けているかを思い出せば、 腑に落ちます。面接では、「自分」らしさを強調するように。独自の「自分」をアピールする ため、学生時代には、旅をしたり、サークルのリーダーをしたり、バイト先の指導役をしたり という経験を必ず積んでおくように。
その結果、君が今どんな「自分」なのかを、面接官に対してユニークにアピールするように…。
「自分」、「自分」、「自分」と言われ続けた結果、本当に奇妙な「自分」という閉域が、 若者達の中に出来上がってしまったのではないか。
もちろん、その背景には「ゆとり教育」があり、その中での「教える〜学ぶ」関係の崩壊もあり ます。それが、「自分」作りを周到に準備してきた側面は否めない。ただ、就職支援事業の 隆盛は、やはりそれに止めを刺し、しかも日々拡大再生産をつづけていると思えます。

 

ところが、大人世代なら暗黙に知っているように、「自分」などというのものは、いわば網の 結び目のようなもの。子に対して父であり、妻に対して夫であり、上司に対して部下であり、 女に対して男である……、こうした様々な方向からの糸が、たまたま今この時点で結び合わ さったものでしかない。こんなことは当たり前です。
だから、網の「結び方」が変われば、自分も次第に変わっていく。そう、自分とは、時の流れ、 出会いに応じて、移り変わるものなのです。だからといって、自分を大切にしなくてもいいと いうわけではない。その時々の、周囲の人との関わりを大切にする。そういう意味で自分も 大事にする。これもまた、大人であれば当たり前のことなのです。

 

だから、自分を「変わらない存在」として前提にしてしまうと、当然に周囲の「結びついた」 人々との関係もうまくいかなくなる。
若者達の意識する「自分」は、そのようにして、彼らの生きにくさを作り出しているのではない でしょうか。

 

内田樹氏の最近の著書『修業論』(光文社新書)を読みました。

 

簡単に論旨を紹介すると…、
  −武道修業の目的は、“無敵”の境地に達することである。
  −よく誤解されるが、無敵とは何も、この世界に敵が存在しないということではない
  −そのような意味の無敵は、検証することができないし、達成できるはずもない
  −とすれば、そもそも「敵」とは、自己の能力の発揮を妨げ低下させるものと考える必要がある
  −そこには様々な要素があるが、大きな要因に「私(自分)」という観念が関与していることは明白だ

 

まあ、こんな風な切り出しで、修業をどう進めるべきか、上達とはどのようなことなのかといったことが語られていく、とても興味深い評論でした。

 

さて、ここでも問題にされているのは、奇しくも「自分」です。
人間の中で予め不動の地位を占める「自分」(※その感情、思い込み、知識、感性…、自分にまとわりつく全てのメンタリティを含めて)は、成長の妨げなんですね。

 

武道的な見識にはあまり触れたことはないですが、そもそもこうした「成長論」=「上達論」は、かなり常識的なものです。
例えば、成長の対象となる人の能力の構造に思いを馳せれば、良くわかります。
一番顕在的な能力である「(狭い意味での)知識」や「技術」。これらは、文字でテキストにまとめられていて、体系化されています。それを読むことで、学べるわけです。
こうした知識吸収としての成長には、「100点満点」の到達点があり、したがって客観テストで「成長度」を検証できるわけですね。
ところが、人が人として成長していく上では、上のような「能力」は、全体のほんの一部に過ぎません。ほとんどの成長課題には、予め設定された「満点」などないのです。

 

客観テストでの能力の測定は、いわばひとつの「物差し」の目盛りで行えますが、大半の能力には、そもそも共有の物差しそのものがない。だから、それぞれが目指す成長の方向に応じて、人は自分なりの「物差し」を、その都度探り当てることからはじめなければなりません。というよりも、成長できたときに初めて、結果として物差しを手に入れると言った方が正しいでしょう。

 

何かの仕事を“やりたい”と思う。世界を理解する上での考え方の軸(価値観や思想)を身につける。こうしたことは、仕事をするにせよ学習するにせよ大切な「能力」ですが、上達の手順は、決して何かの書物に書いてあるわけではないのです。

 

「自分探し」をする若者達は、身につけるべき能力のビジョンを見損なったまま、人生を歩み始めているように見えてなりません。

 


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