定期レポート2012年2月

ソフィア・アイ :豪華客船事故の教訓

 

先日イタリアで発生した超豪華客船の座礁転覆事故は、世界中に大きな衝撃をもたらしました。
あのように大きな船が岸のすぐ近くを航行していたこと、しかも操縦はオートクルーズだったこと、船長が乗客救助を放棄して早々に船を退去したこと等、そこには信じがたい出来事が多く孕まれていました。

 

ところで、これと対照的な事故が、明治期の日本で起こっています。
昭和初期までの小学校修身教科書に掲載されていた、明治43年に広島湾で発生した潜水艦の沈没事故は、世界的にも有名な逸話です。
機関故障のため海底17Mに沈没した潜水艦が翌日引き上げられました。その状況から、乗員14名は全員2時間ほどで呼吸困難のため死亡したことが判明したのです。

 

なぜこの事故が修身教科書にも載り世界的にも有名かというと、14名の乗員全員が最後まで秩序正しくそれぞれの配置を守り、懸命に任務を遂行しようとしていた様子が明らかだったからです。
特に艦長の佐久間大尉は、艦が浸水し呼吸困難になる状況の中で、その後の日本海軍への教訓を残すべく、事故状況を詳細に記した手帳で30頁以上におよぶ遺書を書いていました。絶命の最後の瞬間まで、天皇陛下への感謝と自分の任務への忠誠だけを考えていたのです。

 

遺書は、まず「陛下の船をこのような事態で失う不始末をしでかしてしまい…」という謝罪の言葉からはじまり、どのような経緯で沈没に至ったか、そのとき各部機関の状態はどうであったか、またどう対応したかが、詳細に記されていました。そして、さらに言葉をつづけようとして、恐らくそこで息絶えて断絶するという壮絶なものだったのです。

 

さて、潜水艦事故の佐久間大尉にあって、イタリア船の船長に欠けているものははなんでしょうか。
それは、いろいろに表現できますが、最も根本的な点は、未知(もしくは自らの力が及ばない)のものに対する恐れと、それに相対するために必要な伝統的権威(価値)への尊崇の念ではないかと思えます。
わが国には、その「伝統的権威」の象徴として天皇陛下がいらっしゃいます。尊崇の念はもちろん、明治と現代とでは大きく変ってはいますが、価値観としての土壌はいまなお共有されています。事実先の震災を見ても、陛下も国民もそのように振舞っています。

 

企業の人材もそうですが、人はひとりひとり固有の“役割”を担っています。役割は、職責もしくはミッションと言い換えてもいいでしょう。ただ、その役割とは、決して自分だけで決められるものではありません。通常は「上」から与えられますし、少なくとも周囲の人々との何らかの合意と承認の上で初めて成り立つものです。
それだけに、役割とは、時には命を掛けてでもやりぬかねばならないほどの重要な意味を帯びるわけです。

 

これに対して、仮に自分の役割が自分次第ということになると、事態は一変します。何でも好き勝手にできる、まずは自分優先、身に危険が及べば真っ先に逃げる……。これでは、組織も社会もまったく機能しなくなってしまいます。「自分の力で何でもできる」と考える人間ほど、無責任で危なっかしいものはありません。

 

ちなみに、当時この事故が世界に知られたのは、同時期にイタリア海軍でも同様の潜水艦事故があり、その事故状況は対照的に、乗員が先を争って出口に殺到し将棋倒しになる無残なものだったからだそうです。

 

この2つの事故とそこでの人々の行為の対比から、私たちは、今一度自らの役割の意味を問い直したいものです。

 


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