定期レポート2011年6月

ソフィア・アイ :グローバル化との新たな闘い

 

『国家の品格』でその名を馳せた藤原正彦氏の近著・『日本人の誇り』(文春新書刊)では、先の大戦終結後占領国となったアメリカによる日本人の精神改造の実態が、改めて具体的に整理されています。

 

戦後行われた占領軍・GHQによる占領政策は、終戦の遥か以前から練られていたウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム(WGIP=罪意識扶植計画)によって周到に行われました。事後法によって戦犯をでっち上げた「東京裁判」はもとより、政府・旧日本軍関係者の公職追放等が次々に実施され、日本は国家丸ごと改造されていきました。

 

中でも最も恐るべきは言論統制です。現代の独裁国家が行うような暴力による言論封殺のみならず、大本の精神構造そのものを洗脳によって改造してしまおうとするものでした。例えば、1945年の暮れからNHKラジオで放送された『真相はこうだ』や『真相箱』という番組は、日本軍のありもしない「残虐行為」を、これでもかというくらい、繰り返し放送していたそうです。

 

私事ながら、この「宣伝効果」には思い当たる節があります。母は昭和12年生まれで、終戦時8歳でした。感受性のもっとも豊かな時期を、まさに占領軍による情報統制下で送ったのです。その母から、幼少時、日本軍の「不当行為」を何度か聞かされた憶えがあります。母は戦時中、福岡県の久留米市という工業都市に住んでいて、何度も爆撃を経験しただけでなく、学校の行き帰りに米戦闘機から直接機銃掃射を受けたこともあります。そんな母でさえ、米軍も悪いが日本軍も悪いという印象を持つようになっていたのでした。

 

アメリカが日本の占領政策をこれほどまでに周到に行った背景には、いくつかの理由があります。ひとつは、あまりにも勇猛果敢で団結力に溢れた日本を二度と自分達に歯向かえないようにすることです。いまひとつは、戦時中アメリカ自らが行った国際法違反の重大な残虐行為(※中でも言い訳のしようなない歴史的犯罪として、広島・長崎への原爆投下、それと東京大空襲をはじめとする民間人を標的にした空爆による大量虐殺行為があります)を隠蔽し後々罪を問われないようにすることでした。

 

アメリカは主にこれを、自分達のやったことも残虐だが、日本はそうされても仕方ないくらいの残虐行為をしていたという事実を捏造することで行おうとしたのでした。「南京事件」のようなありもしない事件や、A級及びBC級といわれる「戦争犯罪人」が次々にでっち上げられていきました。
ちなみに、「東京裁判」や戦場となった現地国での「戦犯裁判」の不当性については、小林よしのり氏の著作・『いわゆるA級戦犯』(※幻冬舎刊)や『戦争論』(全3巻、いずれも幻冬舎刊)にも、詳しく記述されています。

 

さて、大事なことは、こうした戦後の特殊な事情の上に、現代の私達日本人の感性や思考は形作られているということです。
この事実を見つめなければ、バブル後20年以上にもわたって、次々に「グローバルスタンダード」という名の外国の基準を無抵抗に受け入れてきた経緯を理解できません。しかもその過程で、日本の国力と国益は確実に損なわれてきました。それは、主要国の中で、これほどまでに長期間経済成長が停滞している深刻な国が日本以外にないことからも明らかです。

 

さらに今また、TPP(環太平洋経済連携協定)への参加やIFRS(国際会計基準)導入等として、「グローバル化」の新たな大津波が押し寄せようとしています。
TPPとは元々「環太平洋」に属する一部小国(シンガポール、ブルネイ等)による経済協定です。ここにアメリカが参加したのは、単に自国製品の輸出拡大に都合がよいからです。そのため、中国や韓国は一切参加しようとはしていません。日本だけが、アメリカとの力関係から半ば強制的に参加を余儀なくされる気配なのです。

 

企業の人事労務分野でも、「成果主義」の大波は沈静化したものの、相変わらず不可解な動きが続いています。ひとつは、2000年代に入り盛んに推奨された「ワークライフバランス」です。日本の雇用及び労務管理をヨーロッパ諸国の手法で改定しようとする運動でした。さすがにこれは、コストと効果が見合わないことに加え、日本と欧州の事情の違いが明らかなので、最近は下火になっています。

 

もう一つはの代表例は、「ダイバーシティ(=多様性)・マネジメント」です。この運動はアメリカに起源があります。なぜなら、アメリカは歴史的に黒人奴隷によって発展した国で、現代でも抜き難い人種差別問題を抱えています。これが企業活動の障害にもなるため、「多様性」(=人種の違い)を克服しようとする動きが近年盛んなのです。
なぜこれを日本に持ち込まなくてはならないのでしょうか。わが国は元々多様性を尊重しあう温和な風土です。大きな人種問題等は存在しません。それでも個別には克服しなければならない社会問題もあるので、何十年も前から同和問題、在日韓国朝鮮人問題、障害者問題、男女雇用機会均等問題といったことに、政府・民間含めて熱心な取り組みが進められてきた経緯があります。この点では、むしろ欧米諸国に先んじているといえるでしょう。

 

それなのに、なぜ今「ダイバーシティ」なのでしょうか。ここには、やはり歴史認識の欠如があるといえます。
過去20年間のグローバル化の過程は、多様性を広げるよりはむしろ「グローバル基準」への“画一化”の過程だったからです。わが国に必要なのは、その画一化の実態を冷静に見つめそれを対象化してみる力量を養うことなのであって、これ以上無条件にグローバル基準(その発想、思考を含めて)を受け入れることではないのです。

 

グローバル化との新たな闘いは、政治経済はもとより、こうした思想、歴史認識レベルで展開されていることを、再認識しておきたいものです。

 

 



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