定期レポート2009年8月
読書ノート6 :『1Q84』(村上春樹作)と酒井法子事件
本書発売以来の売行きは凄まじいものがあり、同氏の空前のロングセラーである20年前の『ノルウェーの森』をも凌ぐ勢いなのだそうだ。
当初「少数の読者」(※村上弁)に向けて書かれ始めた同氏の小説群は、日本だけでなく全世界で、今や広範な読者層を獲得するに至った。本作もすでに英訳作業が始められているという。
本書が発売された5月末に購入しすぐに読んだので、すでに読後2ヶ月程が経過した。2部作で合計千頁以上に及ぶ書き下ろし大作なのだが、いつもながら村上特有の極めて読みやすい文体なのでするすると読み終えてしまった。
ただ、初めて「総合小説を目指した」(※村上弁)という本作は、その読みやすさとは裏腹に、純愛からミステリーまでの小説ジャンルを縦横無尽に行き来し、新興宗教、児童虐待、身体障害、殺人という多様な問題テーマが輻輳している。加えて、「空気さなぎ」、「リトルピープル」、「2つの月」、「パラレルワールド」、「分身」といった村上小説特有の謎めいた伏線が張り巡らされ、作品への端的な印象を持ちにくいという思いが残っていた。
一体村上春樹は、「自分の読者」にどのような印象をもたらそうとしたのだろうか。
■『1Q84』と酒井法子事件の接点
この2ヶ月間、その「端的な印象」について引っかかっていたところ、8月になって、タレント・酒井法子の薬物使用を巡る騒動が巻き起こった。
実はこの酒井法子事件をきっかけに、小説『1Q84』の漠然としていた印象が思いがけず収束していくのを体験することになった。
酒井法子は、ある意味で稀有なタレントである。特にファンではない人でも、20数年前にデビューした頃、「のりピー語」で一世を風靡したことをよく憶えている。90年代には、「星の金貨」や「ひとつ屋根の下」といったヒットドラマに出演していたことも知っている。そして、結婚してからも、脇役ながらNHKの大河ドラマ等にたびたび出演して存在感があった。その結果、30代〜50歳くらいまでの世代にとっては、20年以上にわたって、いつもどこかで気にしているようなアイドル的存在だった。「清純派」と言われるが、長い間一貫した好感度を保持してきたのは事実である。こういうタレントは、居そうでいてあまりいない。だから、今回の逮捕後に放映されたニュース番組は、視聴率30%を超える異例の高さだった。また、ネット上の楽曲配信サイトにも、アクセスが集中し、酒井の曲が異例のヒットチャート入りをする事態にもなった。(※現在は配信停止)
歌手・酒井法子の代表曲に、唯一のミリオンセラーにして最大のヒット曲・『碧いうさぎ』(※作曲:織田哲郎、作詞・牧穂エミ)がある。愛する人へ会えない悲しみが描かれ、はじめての手話による振り付けが、酒井法子特有の表現となって、「会うことへの懸命の試み」、「それでも会えない孤独」への切なさをさらに美しく増幅させる。ひとりの時間に、まるで夜風のようにすっと染みとおってくるそのメロディーは、作曲した織田哲郎も、自身の楽曲の中で一番のお気に入りなのだそうだ。
ドラマ『星の金貨』の主題歌だったこの曲の「碧いうさぎ」は、もちろん、会えない悲しみの前に何の手段も持たない無力な「私」自身のメタファなのだが、恐らくは「動物としてのうさぎ」というよりは、夜空に静謐に光る月に閉じ込められた「物語としての兎」から得られた比喩なのだろう。
酒井が歌いながら滑らかに行う手話は、手話という行為がこんなにも美しい表現だったのかと気付かせる。単に振り付けとしてではない。発話を交わせない関係の中で、それでもあらゆる手立てを尽くしてコミュニケートしようとする懸命の姿を、酒井が見事に表現しているからだ。メラビアンの法則が、メッセージ全体における発話の貢献性を3割程度と主張するのもうなずける。このような表現行為を、酒井法子以外の歌手から目撃することができるだろうか。
「逃走」6日目にして酒井が逮捕された後、この『碧いうさぎ』を何度か聴き返してみた。
驚くべきことに、そこから溢れ出る印象こそ、まさに小説『1Q84』の端的な印象に最も近いイメージだったのだ。
それを月並みな言葉で表現すれば“孤独”ということになる。しかし、それは並大抵の孤独ではない。幼児期からの避けられない環境的事情に根を持ち、それを乗り越えるためのおよそ考えうるあらゆる懸命の努力を払い、それでもなお自らの人格に取り付いて離れないような孤独、とでも言えばいいだろうか。
■“孤独”を描き続ける村上春樹
振り返れば、誰もがこうした不可避の孤独と背中合わせである。それは、私達のすぐそばにいつも寄り添い、足元のすぐ傍の地面に亀裂が走るように、ふと気づけばぽっかり空いた暗黒の深淵が口を開いている。
※察するに、今回の酒井法子も、孤独の渦の中でその深淵に引き込まれたのだろう。
小説『1Q84』は全24章構成になっているが、2人の主人公である青豆(※女性の苗字)と天吾の物語が交互に描かれ、章を追うにつれて2人の関わりが解き明かされ深まる仕掛けになっている。こうした仕掛け自体は、村上の過去の小説を含めて多く存在し、取り立てて目を見張るものではない。
注目したいのは、前述の楽曲『碧いうさぎ』が、まるで主人公・青豆のためのテーマ曲のように聴こえることだ。
『碧いうさぎ』の冒頭で、「あとどれくらい切なくなれば あなたの声が聞こえるかしら…」と歌われているように、「私」と「あなた」との現実の接点は極めて小さい。まして、肉体的な接点等、ほとんど予感させるものはない。
同様に青豆は、弱冠10歳の時、天吾と一度だけ手を握り合った経験だけを頼りに、天吾への想いをつなぎとめ、その価値を確信している。放課後の小学校の誰もいない教室で、わずかな時間、しかも一言も交わすことのなかった体験、それが人生において最もかけがえのない出来事だという。
曲の終わりのところに差し挟まれたフレーズ、「碧いうさぎ 祈りつづける どこかにいるあなたのため…」。この部分などは不思議なことに、幼い頃家庭事情で新興宗教「証人会」に入れられ、その宗教的習慣のために過酷な運命を背負いながら、それでも天吾と巡り合う希望=祈りを持ち続ける青豆の人生そのものを表現しているようですらある。
さらには“月”である。前述したように『碧いうさぎ』は楽曲の印象から月をイメージさせるが、『1Q84』の中で青豆があるときから「もう一つに世界」へ滑り落ちていく象徴は、「月が2つあること」なのだった。
なぜ村上が、「2つの月」を現実ともう一つの世界との違いの象徴にしたのかは分からない。ただ、小説全体を見渡すと、そこに広がっているのは主として都市であり、しかも閉じられた都市空間であることが分かる。加えて、その時間は概ね「夜」であり、したがって月が出ている。昼間が描かれる場合も、晴天の太陽の下といった風景はなく、部屋の中、喫茶店といったやはり閉じられた空間がステージになっている。
『1Q84』を象徴する世界は、閉ざされた都市の夜なのだ。
主人公・天吾は、新宿を中心に、せいぜい中央線沿線の町を移動する。青豆も同様に、自由が丘に住み、「老婦人」に会う麻布、「パートナー」と飲み歩く六本木や青山、殺人を犯す渋谷といったように、天吾と交錯しない都市・東京のごく狭いエリアを移動している。そして、そのほとんどが夜だ。
閉ざされた都市空間、そこには気を許せる友人や家族はいない。出会う人々は、必ず何らかの強烈な思惑を持っていて、ある意味で主人公達を利用している。
唯一の身近な(※つまり、利害関係にはない)存在が、天吾にとっては年上の不倫相手である人妻・恭子であり、青豆にとっては、男漁りのための夜のパートナーである婦人警官・あゆみである。だが、そうした存在は、殺されたり失踪したりして、ほどなく彼らの前から消えていく。まるで、それが宿命であるかのように。
唯一の例外が、天吾にとっての美少女作家・「ふかえり(深田恵理子)」だが、これは人格的紐帯を切り結ぶ対象というよりは、その存在そのものがひとつの謎として描かれている。
物語の本線は、そうした「孤独」を遠巻きに作り出している力、そしてその力の源泉としての「教団」や「リトルピープル」にあるのだが、それについてはすでに多くの評論が書かれているので、ここでは触れない。
■村上流の孤独を体現してみせた酒井法子
いずれにしても、私達を取り巻く現代に特有の孤独を描くために、村上春樹は、これほど多くの仕掛けと伏線を張り巡らせる必要があったのだろう。そして、物語は結末に及んでもなお多くの伏線を回収しないで放置したまま閉じられる。
※そのため、第3巻がいずれ出版されるというのが、もっぱらのうわさである。
酒井法子事件は、まるで現実世界に起こった『1Q84』のようである。
夫・高相が職務質問されたのは、渋谷・道玄坂の路地裏。風俗街とホテル街の境界辺りの店舗が雑然と密集する狭いスペースだった。そのため、野次馬がたかったことだろう。時間は深夜11時過ぎ。職務質問を受けながら高相が掛けた電話で酒井は呼び出されてくる。すぐに、しかも「社長」と呼ばれる男を含む数名を伴って。一体どういう関係にあれば、職務質問をされている夫の下に同行することになるのか。
1時間以上に及ぶやりとりの末、やがて夫の逮捕が免れないことを悟る。自身の任意同行と尿検査を頑なに拒絶した後、酒井は行方をくらます。一旦南青山の自宅(※渋谷から徒歩圏内)に戻り、取るもののとりあえず息子を伴って再び外出する。息子を夫の愛人にあずけ、深夜営業の量販店で下着やカップラーメンを買い込んだ。自身の逮捕、タレント生命の終焉、関係者や息子への裏切り……、そして、恵まれなかった自らの出自、そこから懸命の努力で築いてきた現在の地位、再び繰り返されようとする不幸。今後への予測と過去の傷が、濁流のように酒井の精神を襲う。少数の「身内」に慌てて連絡し、いつまで続くか分からない助けを受けながら都内数箇所を点々とする。しかし、逃れることはできない。テレビからは、連日連夜自分自身の報道がひっきりなしに流れている。
そして、6日後の出頭。逮捕状が執行され、目の前の世界は、見紛うことのない孤独に染められていく。塀に隔てられているからではなく、最早だれも傍にいない世界。乗り越えたはずの不幸。時間を経てもうまくマスイメージの中に溶け込みつづけることができたアイドルとしての才能。誰からも愛され受け入れられていたはずの人生。レールのポイントは一体どこで切り替わったのか。同じ現実に見えた世界は、どこで似て非なる「パラレルワールド」に変貌してしまっていたのか。どうすればそれに気付き、回避することができたというのか。
湾岸署の婦人房の中で、天吾との愛への希望を捨てなかった青豆のように、それでも「碧いうさぎ」は愛する人のために祈り続けることができたのだろうか?
■哲学的問いをつづける村上小説の行方
「自分という存在とは何か?」、「自己の身体に自己の精神があり、他者の身体にはその他者の精神がある必然性はどこにあるのか」といった実存的な問いにはじまり、「世界とは何なのか、どこまで続いているのか」、「先程まで目にしていた世界と、今自分が存在している世界は果たして同じ世界なのか? その根拠は何なのか?」といった世界認識への問いに至るまで、村上小説の基調を貫いているのは、もっとも基本的な哲学的問題意識である。
この点は、今回の『1Q84』において一層徹底されているように思われる。
もともと村上の長編小説に大きく2つの系統があることは、すでに広く知られている。
大ヒット作の『ノルウェーの森』(1987年)をはじめ、『国境の南、太陽の西』(1992年)や『スプートニクの恋人』(※1999年)といった作品群は、ほぼ恋愛小説と呼んでも違和感がない。その一方で、村上は『羊をめぐる冒険』(1982年)にはじまり、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)や『ねじまき鳥クロニクル』(1994年〜1995年)、『海辺のカフカ』(2002年)といった、ミステリー風の独特の謎仕掛け小説を書いてきた。
「『1Q84』は総合小説」と言っているように、たしかにそこには2系統の要素が統合されているようにも見える。ただ、それだけに感覚的には統一的な端的な印象を持ちにくい小説でもあった。
今後続編が出るにせよ、別の小説が構想されるにせよ、ここまで執拗に示唆されてきた哲学的な問いがどう展開するのかを楽しみに待ちたい気がする。
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