定期レポート2008年2月

ソフィア・アイ :環境主義の「未来」

つい先ごろ、中国製餃子による広域での中毒という深刻な事件が起こり、国内を震撼させました。その全容は依然闇の中にあります。こうした事例をはじめとして、近年地球温暖化問題、食糧危機、動植物保護等が盛んに取りざたされ、その背後で「環境主義」思想の台頭が目立ちます。
現代に生きる私達は、この思想とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。

1.中国貿易に見る「グローバル化」の本質

映画『武士の一分』では、藩主である殿様へ食事を出す前に、毒見係の5人の家臣がすべての料理の毒見を行う光景が描かれています。木村拓也扮する主人公は、運悪く貝の毒に当たって失明してしまいます。
今般の「中国餃子事件」を引き起こした企業では、どうやらこの「お毒見役」が不在だったようですが、今後は幹部が交代で毒見を行うようにすれば安全なのではないでしょうか。
このような冗談を言いたくなるくらい、わが国の食糧安全保障は脆弱な基盤の上に乗っています。ちなみに、冷凍食品製造における中国への依存度は5割を超えると報道されています。
その「脆弱性」にもいくつかの意味があります。まずは、いざ食糧危機になった時、一体どうするのかということです。対日感情が悪く国策としても事ある毎に日本を敵視する中国が、危機的状況でわが国を助けてくれるなどとは到底想像できません。
それ以上の問題は、中国の文化・習慣への認識不足です。
15年以上前になりますが、筆者の勤務する電子部品メーカーは多くの製品を中国工場で組み立てていました。その工場立ち上げに際しての最も大きな障害が、この文化と習慣でした。
女子工員の人達は、習慣上平気で床に痰を吐いたりします。ところが、電子部品の組み立てラインでこのようなことをされては、途端に品質問題に関わってきます。ですから、生産を統括する技術者達は、各ラインの端に「痰壷」なる容器を置き、そこに痰を吐かせることから指導していったのでした。
そうした「現地事情」を知る者としては、当の中国で生産された食品を、たとえ形式上の衛生・品質管理が徹底していると言われても、到底口にする気にはなれません。形式上の管理以前に、そこでは「衛生」や「品質」に関わる基本的スタンスが全く異なるからです。
長い年月を経て形成された文化は、容易に変化するものではありません。グローバル化、「日中友好」といったことが軽々に言われる前に、こうした文化・習慣レベルでの実感に関わる現実が、十分に共有されるべきなのです。

2.環境主義の暴走

温暖化問題が社会的に注目を集めるようになって久しい今日、TV番組が「氷河の崩壊」や北極・南極の氷の溶解現象を頻繁に取り上げるようになり、地球環境問題への関心は一段と高まりを見せています。中国製冷凍食品への農薬混入事件等を見ても、世間の環境主義のへの傾斜はやむをえない面があります。
そもそも環境重視の思想は、今から20年以上前の80年代中盤には、すでに一定の社会的勢力を得ていました。西ドイツでは緑の党が議会で躍進し、グルーンピースの突出した「環境運動」も徐々に注目されるようになっていました。
とはいえ、ある特定思想の勢いが一定レベルを超えると、必ずそこには「暴走」の気配が漂い始めるものです。
年明け間もない本年1月15日、オーストラリア近くの南極海において、わが国の調査捕鯨船に対して、テロとも言える暴力的な捕鯨反対行動が行われました。「シーシェパード」と名乗るこの団体は、日本の調査捕鯨に対して昨年来執拗な妨害行動を展開しています。そのやり口は、高速艇で捕鯨船に接近し、有毒強臭の化学薬品を投げつける、スクリューに絡めようとしてロープを流すという極めて危険悪質なものです。過去には、アイスランドやノルウェー船を沈めたこともあります。また、今回の事件では、活動家2名(オーストラリア人、英国人の各1名)が捕鯨船に強引に乗り込んでくるという行為にも及びました。しかもその後、自ら他国の船に侵入しておきながら、丁重に対応する捕鯨船に対して「人質をとって要求を突きつけてきた」という滅茶苦茶な声明を発信しています。
さらに恐るべきことには、環境政策を重視するオーストラリア政府は、自国民の犯罪行為を非難するどころか、いかにも日本側に非があるかのような対応を当初取っていました。
この事件には、行き過ぎた環境主義が、人や国家の正常な判断能力を奪いつつある状況を見て取ることができます。

3.交錯する商業主義/批判されない思想の危険性

独裁的な国家や権力が必ず腐敗に至るように、どんなに清潔で正当に見える思想も、それが誰からも批判されないような地位を得ると、だんだんとその背後に腐敗の影が見え隠れしてきます。
事実、シーシェパードや同類の団体であるグリーンピースは、その過激でセンセーショナルな「環境保護活動」によって、環境関連企業から多額の寄付金を得ているといわれています。要するに、彼らの活動は、営利目的なのです。
しかし、こうした事実は、環境主義の「腐敗臭」の一面でしかありません。さらに掘り下げておくべき事実があります。
CO2等温室効果ガス削減の国際的合意である京都議定書。
気候変動枠組み条約に基づいて1997年に京都で議決されたこの議定書の中身は、主に参加各国「温室効果ガス削減目標」と、その対策としての「クリーン開発メカニズム」や「排出権取引」等を定めた体系的なものです。
中でも、特に最近、国家間・企業間での「排出権取引」が盛んに報道されていますが、その実効性はどうなのでしょうか。
排出権取引とは、削減目標を達する見込みのない国や企業が、目標達成に余裕のあるところから金銭によって目標の一部を買い取るという仕組みです。一見すると、温室効果ガス削減に向けた合理的仕組みに見えますが、取引の中で金銭が移動しているところに不可思議さを覚えます。
そもそも極論すれば、地球温暖化がこれほど加速的に進んでいる根本原因は、地球上の人口増加に尽きます。
世界人口は、現在66億人に上ります。国連の推計によれば、これは100年前の約3.5倍、200年前の6倍、1000年前との比較ではなんと約30倍の水準なのです。こうして加速度的に増加した人々が、産業革命によって工業化を進め、一方で植民地争奪の戦争をし、現在でもいろいろな名目で近代兵器を用いた戦争しています。加えて経済のグローバル化が進み、生産だけでなく船舶や飛行機による国際的な物流が盛んになれば、温室効果ガス増加によって環境に弊害が生じるのもいわば必定といえます。
経済を中心とする人間の活動量と、温暖化をはじめとするいわば「環境破壊量」とは基本的に比例しているのです。そして、「人間の活動量」は、経済成長に比例しているともいえます。
とすれば、そもそもお金のなかったところに排出権取引によって資金を供給し経済の規模を拡大させれば、それが新たな消費を生み、そこからは更なる温室効果ガスが発生するのではないでしょうか。
それでも、世界のあらゆる国は、自明のごとく経済成長を追求しています。
真の意味での環境問題は、経済社会の取引と分配の仕組みの中にあると言えそうです。
私達の社会が、「経済成長」に代わる活動の新たな動機を獲得できるかどうかにかかっているのです。

4.食糧危機の本質

余談ですが、ヨーロッパの「環境先進企業」では、温室効果ガス削減のため、企業内で様々な「創意」に満ちた取組みが行われているそうです。
一例として、社内に浄水器を多数導入し、ペットボトルの水を購入しないという施策があります。なぜこんなことをするかと言えば、ペットボトルの水は輸送が必要で、その過程でトラックから温室効果ガスが排出されるので反環境的なのだそうです。
しかしそれなら、浄水器の方はどうなのでしょうか。製造過程で多量の水や電力が使われているのではないでしょうか。製品はやはりトラックで輸送されてくるのではないでしょうか。装置が故障したときのメンテナンス要員も、車で移動するのではないのでしょうか。
要するに、このように環境問題を捉えると、ほぼ「経済活動(※つまり人間が生きること)=環境破壊」という等式が成り立ってしまいます。多少やり方を変えても、それは新たな形態の経済活動に過ぎず、最悪の場合は「環境」に名を借りた商業主義でしかないのです。
最後に、食糧問題に立ち返っておきましょう。
国連世界食糧計画の統計によれば、全世界の栄養不足人口は8億人に上ると言われます。(※ちなみに、毒入り餃子問題の中国では、GDPが毎年2ケタ成長を続ける一方で、2億人以上が栄養不足状態にあります。) また、飢餓によって死亡する人数は年間約1,500万人で、このうち7割が子供です。
一方、わが国の現状を振り返ると、国内では年間約2,000万トンの食糧が捨てられているそうです。(※NHKの報道他による) その量は、開発途上国における5,000万人分の年間食物量に相当します。
結局、「食糧危機」の本質も、環境問題と同様に、その絶対量の不足ではなく経済社会の取引と分配の仕組みにあるのです。

キーワード8 : “マネージャー”

今年に入ってから、大手紳士服販売店や大手外食産業を舞台にした裁判において、管理職の管理職性を否認し残業代の遡及支払いを命じる会社側敗訴の判決が相次いで出されました。
そもそもこの「管理職」(=マネージャー)とは、一体何なのでしょうか。
労働基準法41条は、管理職の要件を「事業の種類にかかわらず監督若しくは管理の地位にある者又は機密の事務を取り扱う者」と定め、労働時間管理の適用除外対象としてよいこととしています。
さらに行政通達は、その詳細として、概ね次の2つの要件を提示しています。
 ? 管理職としての裁量権:「労働条件の決定その他の労務管理について経営者と一体的立場にある」
 ? 報酬:「その地位に相応しい待遇が与えられている」
今回の判例では、「店長」という地位は与えられているものの、実態において上のいずれの条件も満たしていないことと判断されたようです。
ところで、こうした法的な議論とは別に、マネージャーの概念を組織マネジメントの観点からも考えてみることが重要です。
組織マネジメントでは、マネージャーというポジションには2つの側面があると考えられます。
ひとつは、企業・組織から、その職責・ミッションを付与されることによって地位と役割が成り立っているという側面。
さらに、もう一つの点が見落とされがちなのですが、自らの主体性によって、その権限と裁量を維持・拡大し、新たなミッションと貢献性を創り出していくという側面です。
この2つの契機(いわば、依存性と自立性)は、企業に限らず組織(または社会)と個人の関係において本質的なものです。そうでなければ、組織の “生きる場”としての価値は、全く失われてしまうでしょう。
ですから、マネージャーは、そのポジションに任命された時点で、そうした自己の地位における社会的意味を自覚し、日々その自立性を高めるように研鑽する姿勢が不可欠です。
今回の一連の事件で気になるのは、まさにこの自立性の側面です。
例えば、紳士服大手の店長は、自店舗の業績ノルマ達成を取り繕うために、自宅の部屋一杯になるほどの自社商品(※主にスーツ)を自ら買い込んでいました。また、外食大手の店長は、月間200時間近くに及ぶ残業を継続していました。
こうしたことは、「組織の中にそうせざるを得ないような圧力があったのだ」と言ってしまえば、たしかにそれまでのことです。しかしながら、個人の人生として、そうした道が「唯一の選択肢」であったというのは、いくら何でも言い過ぎでしょう。最低限の主体性において考えれば、そこには自ずと「別の道」(※会社への異議申し立て、場合によっては転職等)の選択もあり得たはずです。
大事なことは、マネージャーの重要な要件の一つが、組織の制約と自己の主体性との相克の中で、日々組織とビジネスの新しい地平を切り拓こうとする気概にあるということなのではないでしょうか。



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