定期レポート2008年1月

ソフィア・アイ :「国際競争力低下」の構造

 年末年始を通じて再び株式相場が急落していることもあってか、ここのところ新聞紙上では、わが国経済の国際競争力低下を指摘する論調がしきりです。
 日本の競争力は本当に低下しているのか。だとすれば、一体そうした“変化”の本質はどこにあるのかを、考えてみたいと思います。

1.激変する経済環境

 昨夏米国発のサブプライム問題の波及によって、この間私達は金融システムの危機に眼を奪われてきました。しかしながら、世界経済には、金融分野にとどまらない大きな構造変動の波が押し寄せているようです。
  年末年始を契機に、この間、何人かのメーカー幹部の方と意見交換する機会がありました。どちらの企業も、増収基調にありながらも「増益」に関しては苦慮している点で共通しています。
  さらに、利益が思うように伸びない要因は、為替相場の変動(※円高ドル安等)でもまして人件費の高騰でもなく、原材料費の高騰にあるようです。
  たしかに、生産原価がわずかに数ドル程度といわれる原油相場(※1バレル)は、すでに100ドルを上回りました。また、金、銅、その他レアメタルの相場も、それに比例するように急騰しています。それに対して、デフレ状況をいまだ完全には脱し切れない中で、メーカー各社は製品価格の引き上げをほとんど行うことができない状況に置かれているのです。
  一方、産油国等いわゆる「持てる国」は、史上空前の好景気に沸いているようです。例えば、UAEの主要都市であるドバイは、現在高層ビルや高級リゾートの建設ラッシュで、何と全世界の建設用クレーンの3割が集中しているそうです。また、原油高騰で膨れ上がったアラブ諸国の政府系ファンドが全世界の有力企業に対して出資を増やす等、オイルマネーによる資本市場の支配も着々と進んでいます。
  有数の産油国でもあるロシアでは、プーチン大統領率いる与党が、経済の高成長を背景にして先日の下院議員選挙で圧勝しました。旧KGB(※秘密警察)官僚出身の大統領への国民の支持率は、7割を超えると言われています。
  最近のロシアの経済成長は目覚しく、1999年からの5年間で名目GDPは約3倍に飛躍しており、ドル換算でも約2倍になっています(※外務省WEBサイト掲載データ参照)。その背景として、原油生産量が同じ期間に約1.5倍に伸びている事実に、目を奪われざるを得ません。ここでも、カギは天然資源なのです。
  「冷戦後」、主要先進国とその他の開発途上国という構図で推移していたように思われた世界経済の構図は、いつの間にか明らかに構造的変貌を遂げつつあるのです。

2.「国際競争力」の実態

10年ぶりくらいでヨーロッパを旅行する人々は、その物価の高騰ぶりに驚くそうです。それもそのはず。発足当初100円程度だった1ユーロの相場は、現在約160円。また、購買力平価も変動しているため、街中で食事をしたりするとその価格は倍以上に上がっていような感覚だといいます。
  こうした実感レベルでの現象からも、わが国経済の国際競争力低下が憂慮されるようになっているのでしょう。
  そこで、国際競争力の実態を見るために、2つの指標を確認してみたいと思います。
  まずは、労働生産性指標(※就業者一人当たりの付加価値)です。
  社会経済生産性本部から毎年発表されるOECDのデータに基づく指標(※GDPベース)は、各種の論議の中で頻繁に取り上げられる代表的なものです。一般に、わが国の「低生産性の裏づけ」とされています。
  その最新(※2005年度)データによれば、わが国の労働生産性は61,862ドル(※789万円)で、先進7か国中最下位、OECD加盟30か国中の20位に低迷しています。
  この結果を以って、特にワークライフバランス関連の学者等は、「日本の労働生産性は低い。その理由は、日本の労働者が、他の先進国に比べて過酷な長時間労働下で虐げられているからだ」としきりに言い立てています。
  果たして、本当にそうなのでしょうか?
  まず確認しておかなければならないことは、このOECDの統計データは、購買力平価による複雑な換算を経て算出されているものだという点です。しかも、わが国は順位こそ20位ですが、10位の英国以下日本までは、10,000ドル以内のごく狭いレンジの中に集中しています。
  参考までに、購買力平価を加味しない名目労働生産性(※製造業)では、わが国は今世紀に入ってからでも、一貫して5位前後に位置しています。ちなみに、圧倒的な一位は、特段経済力の評価が高いわけでもないアイルランドが常に占めています。
  次に、国際競争力そのものの代表的な指標が、スイスのIMD(※国際経済開発研究所)が発表する「国際競争力ランキング」です。
  この最新データでは、わが国は55カ国中24位で、中国やエストニア、マレーシア等よりも下ということになっています。
  IMDの考え方は、競争力を、「経済状況」、「政府の効率性」、「ビジネスの効率性」、「インフラ」の4つのカテゴリーに分類し、カテゴリー毎にさらに5つ、計20の具体的指標によって測ろうとするものです。大まかに言って、一般的なイメージとしての経済的競争力というよりも、経済活動が自在に展開できる環境が整っているかどうかを見ている指標です。例えば、わが国は「政府の効率性」分野が最も低く34位ですが、ここでは税制(※法人税率の高さ)、政府の債務、外国人雇用に関わる法制度等が低く見られているのです。
  結局、この国際競争力指標は、西欧型のスタンダードに基づく競争力に関する一つの見方だと言えます。
  では、国際的経済関係や競争力における変化の本質はどこにあるのでしょうか?

3.国際経済関係変容の本質

 戦後わが国は、特に製造業における技術力と勤勉性によって経済規模を拡大し、長らく世界第2位の経済大国としての地位を保持してきました。「技術・生産力(※また、その結果としての製品力)の優位性」によって資本主義経済圏の盟主の地位を占めることで、同時に技術・生産力の序列に基づく価値構造を作り上げ君臨してきたのです。
  ところが、現在進行している国際経済の変容は、「技術と生産力を基盤にした経済力」という概念そのものが揺らいでいる点に特質があります。
  経済力の裏づけは天然資源という物質に移行し、資源を保有していること即ち経済力であり国力であるという原理が台頭してきているのです。天然資源を保有している者が莫大な富と資本を手にし、世界経済を動かすようになっています。
  力関係の軸が「技術・生産力の優位性」から「天然資源の保有量」へと移行する中で、「持たざる国」であるわが国は、国際経済の脇役へと後退しつつあります。
  しかしながら問題は、新たに形成されつつある「経済力」が果たして真に歴史的な“国力”たりうるのかという点にあります。天然資源は、何らの労働も生産過程も伴わない単なる物質に過ぎません。そこには、国家を形作る文化や伝統への契機は、何も存在しないのです。そのような無機質なものが巨万の富に置き換わり、世界的規模で社会経済システムを支配しようとしているわけです。
  ここには、よく掘り下げてみるべき問題が潜んでいると思われます。

4.「 “貨幣”から“モノ”へ」の意味

 哲学者・ヘーゲルの主著である『精神現象学』の前半部分に、有名な「主奴論」(※または、主と奴の弁証法)という論理が出てきます。
  その概略は、次のようなものです。
  ある段階における人間の意識は、自分の自立性(=自由)や価値についての確証を得たいという欲望を持つ。しかしながら、その確証は自力では得られず、必ず他者の承認を必要とする。事実、人間は承認を賭けて他者との命がけの戦いを歴史的に繰り広げてきた。その結果、人間社会には、例外なく「主⇔奴」による支配構造が作り上げられている。
  一見すると、支配階層である「主」は絶対的な自立性を獲得しているように見える。ところが、その実態は、「奴」の“服従”やそれに基づく労働奉仕に全面的に依存して成立しているに過ぎない。つまり、自立は虚構なのだ。むしろ、「奴」の方が、死への脅威や労働による生産という経験を積むことで、真の自立性を掴む契機を豊富に有することになる。そのため、歴史は支配構造の逆転をたびたび繰り返してきた。
  「ヘーゲルの弟子」を自認するマルクスは、この主奴論を経済理論に応用して、資本主義の基本原理を解明しました。その内容は、主著『資本論』の冒頭に「価値形態論」として展開されています。その概要は、次のようなものです。
  貨幣に体現された経済的価値の本質(※即ち、価値形態)は、次のような、商品と貨幣との4段階の関係を仮に想定してみることで明らかになる。
?商品Aが、その価値を商品Bによって表現している状態
  ※このときの商品Aを「相対的価値形態」、商品Bを「等価形態」という。
?商品Aが、その価値を商品Bだけでなく、商品C、商品D……というように無数の商品によって表現している状態
  ※このときの商品Aを、「展開された相対的価値形態」という。
??の関係(※つまり、商品Aが他の商品で自分の価値を表現している関係)が逆転して、商品Aだけが価値を表現する立場(※即ち「等価形態」)に立つ状態
  ※このときの商品Aを「一般的等価形態」という。
??における商品Aの立場(※「一般的等価形態」)が、商品ではなく、金や紙幣に置き換わった状態
  ※この場合の一般的等価形態を「貨幣形態」という。
  価値形態論の理解は決して容易とは言えませんが、資本主義経済における価値の本質を正確に捉えることができます。
  その分かり易いポイントは4つのうちの3番目の段階にあります。
  価値形態論における「等価形態」とは、要するに「主奴論」における奴に他なりません。主の価値を支えるだけの立場です。ところが、奴が全ての主の価値を表現するようになると、一転して立場が逆転する、それがこの3番目の一般的等価形態の段階なのです。しかも、それは単なる立場の逆転ではなく、全商品の奴(※等価形態)であることを通じて全商品の主(※全ての商品が、商品Aなくしては、自分の価値を表現できない状態)となることに他なりません。

5.わが国の現状への示唆

 以上の論理展開を国際関係に置き換えてみるとどうでしょうか。商人国家、加工貿易立国としてのわが国は、まさに全ての国々の「奴」でありつづけることを通じて、経済大国(即ち、「主」)としての立場を維持してきたのでした。価値形態論に学ぶなら、わが国の地位は、「奴」であり続けることによってのみ、今後も持続していくはずのものです。
  その「秘訣」に関して、マルクスは『資本論』の後段で“貨幣の資本への転化”を説明しながら明らかにしていきます。それについてここで詳細にご紹介する猶予はありませんが、 ヒントは次のような論議の中にあります。
  資本主義の発展段階では、単に獲得した貨幣を貯め込むだけの守銭奴(=「蓄蔵貨幣」)という形態が登場する。ところが、守銭奴は単に獲得した価値(※即ち「主」の立場)にしがみついているに過ぎず、そのままでは永久に資本へと発展することはできない。資本への転化には、獲得した価値や地位を繰り返し永続的に市場の中に投げ入れて(「命がけの飛躍」を続けて)、「奴」であり続けることがむしろ必要なのだ。


 彼(貨幣)の蝶(資本)への成長は、流通部面で行われなければならないし、また流通部面で行われてはならない。ここがロードス島だ。さあ、ここで飛んでみろ!(※『資本論』第一部から)

 さて、経済大国としての地位の決定的な揺らぎに直面するわが国は、ここに見たマルクスの教えの中から何を学ぶべきでしょか? 少なくとも、外国から提供される統計データに一喜一憂して、国のあり方を悲観することではないはずです。
 敗戦後の全くの無から出発したこと、一心不乱の挑戦と創意工夫を続けることで世界に冠たる技術立国でありえたこと、文化・伝統面における脈々とした永続性と価値継承の中からどの国にも引けを取らない有形無形の多くの歴史的遺産を保有していること。
  足元のたしかな価値を見据え、挑戦と成長を続ける姿勢を回復する中にこそ、国際経済関係において否応なく直面せざるを得ない国家的な危機を克服するカギが潜んでいるのではないでしょうか。

 

読書ノート1 : 『完全解読・ベーゲル“精神現象学”』(※講談社刊)

西洋哲学史に燦然と君臨する巨人・ヘーゲル。
その著作は難解を極め、学生時代に手に取った岩波文庫を数ページ読んだだけで挫折した人も多いことでしょう。
そのヘーゲルが、近年再び注目され、一般にも読まれるようになっています。その大きなきっかけの一つが、新たな翻訳の登場にあります。
例えば、代表作である『精神現象学』には主に4つの邦訳があるそうですが、そのうちの2つはここ10年ほどの間に発表されたものです。筆者は、そのうちの一つ、長谷川宏氏の訳文(※作品社刊)に目を通しましたが、その分かりやすさたるや、「これがあのヘーゲルか?」と思わせるものがありました。とにかく、すんなり読める「普通の文章」になっているのです。それもそのはず、長谷川氏は長年にわたる独自のヘーゲル研究を経て、読者がスムーズに理解できるような配慮を全文にわたって施しているのです。例えば、主要なキーワードについては、ドイツ語で単一の表現(※たとえば、「実体」)でも、文脈に応じて文意が通るように何種類もの日本語(※たとえば、「本体」、「神」、「共同体」、「秩序」、「自然」…といったように)に訳し分けているといいます。
しかしながら、残念なことに、そこに書かれていることが、やはり「ヘーゲルの哲学思考」であることには変わりありません。個々の段落や節としての意味はよく理解できても、何百ページにも渡る全編を読み進むと、やはり前後の文脈の関連が掴めなくなり、容易に進めなくなってしまうのです。
その主な理由は、2つあります。
一つは、そこに書かれている思考の内容そのものが、ヘーゲル特有の難しさに満ちていることです。
例えば、次のような文章が典型例です。
「同一性とは、じぶん自身と同一であるような区別である。…(中略)…。同一性は、かくて、じぶん自身にそくして絶対的な非同一性である。」(熊谷純彦著『西洋哲学史』から引用)
要するに、日本語として文法上は分かっても、依然として意味が分からないのです。
たしかに、古典哲学の文章一般にこうした特徴はあり、比較的文章が分かり易いキルケゴールの著作等にも、次のような難解な表現は随処に登場します。
「自己とはひとつの関係。関係が関係それ自身に関係するような関係である」(キルケゴール著『死に至る病』)
ところが、ヘーゲルの著作は、この手の難解な表現が、まるで機関銃の掃射のように延々と続くのです。
ヘーゲルが難解なもう一つの特徴的理由は、比喩表現や具体例の提示、他の思想家の引用による自己の見解との比較検討といったことが、基本的に行われないことです。
特に、比喩表現や具体例は、一般読者が内容を理解する上で手助けになることが多い上に、頭の休息にもなり読解を続けようとするモチベートにもつながります。現代思想はじめ他の多くの哲学書では行われるこうした表現が、ヘーゲルにはほとんどないのです。
それでも偉大であることだけはたしかなヘーゲル。その壮大な思想体系を、精神のドラマを大体でいいから理解しながら読み遂げてみたい、これは恐らく多くの読書家の願望に違いありません。
そうした読書家のための待ちに待った一冊と言っても過言でないのが、竹田青嗣、西研共著による『完全解読・ベーゲル“精神現象学”』です。
本書は、簡単に言えば、『精神現象学』の要約(※しかも、そのうち半分くらいは、「普通の日本語に置き換える」という意味での和訳の「再翻訳」)です。
この「要約」(※解説ではなく)という作業をヘーゲルの著作に対して行っているところに、本書の革新性があります。なぜなら、要約するためには、ヘーゲルの思想体系全体を一貫して理解し、しかもその理解した内容をヘーゲル自身の言説のまま(※主観的解釈ではなく)読者に伝え切らなくてはならないからです。
竹田と西は、いずれも、哲学思想に関する一般読者向けの分かり易い著作を多く書いている学者です。特に竹田は、すでに筆者の学生時代、井上陽水の音楽をテーマにして、自己の哲学的問題意識を語った評論・『陽水の快楽』(※河出書房新社刊。現在はちくま文庫にも所収)という斬新な趣向の著作を書いていました。
この著者たちは、約10年にも及ぶ共同での読解作業を経て、本書を仕上げたと言います。そして、その作業の結果得られたものは、それまで認識していたヘーゲル像とは全く異なる思想の姿だったそうです。
この事実から、著名な哲学学者達の多くも結局はヘーゲルを完全には理解してはいなかったのだという、一種の安堵感を持ったのは筆者だけでしょうか?



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