定期レポート2007年10月
ソフィア・アイ : “食”は資本主義たり得るのか?
ちょっと遅めの定期レポート10月号です。
「ミートホープ」に始まったいわゆる加工食品を巡る一連偽装問題は、北海道銘菓の「白い恋人たち」の賞味期限偽装へと広がり、さらに最近の「比内鳥」の原材料偽装、伊勢名物で有名な「赤福餅」の賞味期限改ざん等、全く終息の気配がありません。
これらの事態は、個々の企業の不祥事というより、もはや法制上のルールが食品産業界全体として全く守られていないのではないか、ということすら予感させます。
企業不祥事や大事故が相次ぐ中で声高に“コンプライアンス”が叫ばれ、日本版SOX法導入に向けて各企業が多額の費用を内部統制システムに投じている状況の中で、なぜかくも簡単に“偽装”不祥事が頻発するのでしょうか?
余談ですが、筆者は、ここ数ヶ月毎週のように東北地方に出張しています。東北新幹線から眺める風景は何度見てもとても素晴らしく、この間沿線は稲穂がたわわに実り秋の収穫時期真っ盛りです。
ただ、見た目の素晴らしさとはともかく、この稲作、一体どれほどの収入を農家にもたらすのでしょうか? 聞くところでは、標準的な米の収穫量は、1ha当たり3t程度のようです。3tというと随分な量にも思えますが、うちの近所のスーパーでは今年収穫されたばかりのあきたこまちの新米が5キロ当たり1,680円で販売されています。これに基づいて計算すると、米3tの販売価格はちょうど100万円程度ということになります。これはあくまで末端での販売価格ですから、農家の収入としてはそれよりも遥かに低いでしょう。作付け面積3ha以上の大規模農家でなければ専業米農家としては成り立たないと言われるのも頷けます。
現在わが国の食料自給率は40%程度の危機的水準と言われています。もちろん、これは主要先進国中最低で、100%を下回っているのは日本だけです。しかも、穀物自給率に至っては20%台前半に低迷しています。その低迷する穀物自給の中核を占めるはずのお米が、上にみたような極めて脆弱な生産構造の中にあるのです。
稲作の低生産性と、加工食品の偽装問題とは、共にわが国の“食”を巡る生産構造の脆弱性という条件の中で発生している問題です。
コンプライアンス論では、ともすると不祥事をそこに従事する人々の倫理観や法意識の問題に還元しがちです。しかしながら、さらにその根底には、“食”は儲からないという基礎的条件が根深く存在しているのです。
廃鶏を比内地鶏と称して販売した会社は、報道によれば20年以上にわたって同様の不正を続けていました。事実とすれば、これは単に経営者はじめ一部の人間の不正というよりは、社員や取引先を含めたステークホルダー全体の負のコンセンサスの中で行われていたと考えるのが適切です。
もし、彼らに本音を訊けば、必ず次のように答えるのではないでしょうか。
「まともに法を遵守していたのでは生きていけないのだから、仕方なかったのだ」と。
では、なぜ“食”を巡る産業構造は、このように脆弱なのでしょうか?
そこには、たしかにわが国独自の条件も絡んでいます。日本国は国土が狭く山が多いために、人口当たりの耕地(※農地)面積が極端に少ない環境にあります。ただ、国土が十分に広い諸外国でも、農業が産業としてうまくいっているかというと必ずしもそうとは言えない面があります。例えば、旧ソ連や中国等社会主義国における自主管理型農業組織の試みは全くうまくはいきませんでした。また、農業産業化の成功国に見えるアメリカを見ても、牛肉や果物の貿易を巡って常に国際的な紛争を抱えている状況にあります。
問題の本質は、結局“食”を巡る産業が、自然環境や気候、人間個々人の嗜好といった、極めて不安定な要素を所与の条件として引き受けざるを得ないという点にあると思われます。どんなに有名なブランド品作物でも、例えば環境汚染との関わりが取りざたされたりすると、途端に全く売れなくなってしまいます。過去にも、O157ウイルスとの関係が誤解されたかいわれ大根のような悲惨な事例がいくつもありました。
つまり、“食”は、教育や医療等と共に、未だいわば資本主義の外部にあるのです。
それを資本主義の内部の取り込むのか、あるいは“外部”のままうまく機能させていくシステムを作り出すのか、社会的な試行と創造を続けなければならない難問と言えます。
キーワード紹介5 : “行動”=“アクション”
映画『コラテラル』(2004年、米)。
トム・クルーズ扮する殺し屋ビンセントは、ロサンジェルスを舞台に一夜で5人もの暗殺を実行するための「足」として、気のいい運転手マックスのタクシーを買収します。その中盤の一場面。殺人の足になっていることに気付いたマックスがビンセントに向かって叫びます。「こんなこと(=殺人)に手を貸すのはもう御免だ。おれはもう降りる!」
それに対して、ビンセントはすかさず次のような言葉を投げかけます。
「『こんなこと』なんて、おまえに言えるのか? おまえの夢(※リムジン会社を経営して、ゴージャスなサービスを提供すること)はたしかに立派だ。だけど、現実のお前は、しがないタクシー運転手に満足し切っているじゃないか! もし夢を現実にしたいのなら、資金を調達したり協力者を集めたり、今すぐにでもできることが山ほどあるはずだ。なぜ、すぐに行動しないんだ?」
その言葉の前に、運転手のマックスは沈黙してしまいます。
マックスが突きつけられたことは、実はわが国企業組織が直面する現実と共通しているのではないでしょうか。
周りのメンバーとの緊密な対話、部下や後輩への丁寧な指導や動機付け、不正や間違った意見・行為に対する反論・指摘……等々。できる能力があり、やるべきことが分かっているのに、「組織のカベ」の前に、結局実行しないままになっていることが山ほどあるのではないでしょうか。
どんなに有効な解決策を持っていても、使命感に燃えていても、結局行動に移されないことは“ゼロ”でしかありません。
カール・マルクスは、若き日に執筆した『経済学・哲学草稿』の中の、貨幣について論じた章の最後に、次のような言葉を記しています。
「……。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養を積んだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間に対する――また自然にたいする――君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である」(※岩波文庫版邦訳)
重要なことは、“カベ”を乗り越え、行動できるかどうかなのです。
行動に移さない論理は、その社会的有効性を検証することができません。そして、結局は、生きた知恵として具現化することがないまま埋もれてしまうしかないのです。
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