定期レポート2007年7月

ソフィア・アイ : リスクと成果〜新潟中越沖地震の二面性

7月16日(月)、また新潟で大きな地震が起きました。
東京中心部にある弊社オフィスも、小さなビルのせいか、その日は横揺れが数分続くほどでした。被災地には、倒壊した家屋が累々と積み重なり、その惨状は目を覆うばかりでした。

1.柏崎原発での「事故」

その地震の中、黒煙を上げて炎上する東京電力柏崎刈羽原発の情景がニュースで放映されていました。わが国が誇る世界最大の原発施設です。
実は筆者は数年前、ここを訪れたことがあります。きれいに整備された広大な公園のような敷地に、7つの原子炉がゆったりと散在する、それはすばらしい施設でした。厳重に警備されたゲートを車で抜けてしばらくいくと、目の前に小春日和の穏やかな陽光にきらめく日本海のパノラマが広がったのでした。原発から流れ出る多少温度が高めの水で温められた周辺の海域はプランクトンが多く、その上釣り人進入禁止のため、さながら「お魚天国」なのだそうです。
地震の日の朝、その原発内の大きな建物の横で、炎まで上がる火事が起きているのに、そしてそれをテレビ局のヘリコプターがすでに映し出しているのに、それを誰も消火していないのです。後の報道では、断水のため自前の消火活動ができず、消防車の到着も遅れたためとのことでした。 そういうこともあるのかとは思いますが、事は原発の敷地内。化学消化剤やその散布装置、あるいは自前の消防車くらいがあるのでは? と私達の多くは思い込んでいたのではないでしょうか。しかし、そのようなものはなかったのです。

2.「少なかった」犠牲者

犠牲者は出ているのであり、数の問題ではないわけですが、多くの建物が倒壊している被害の深刻さに比べて死者数が9人・10人程度にとどまったことは不幸中の「幸い」でした。
報道によると、倒壊した家屋の下敷きになった方は実際にはかなりいたようです。特に体の自由が利かないお年寄りが多く被害を受けました。しかしその一方で、近所の親戚や知り合いは、すぐにお年寄りがいないことに気づき、危険を顧みず互いに協力し合ってすばやく救出活動を行ったようです。
こうしたところには、わが国の地域社会の絆の緊密さがよく表れています。いつも互いのことを気に掛け合って暮らしているわけです。
これが東京等都会の住宅地ではこうはいかないでしょう。恐らく下敷きになった人々の多くは、誰にも気づかれないまま孤独な死を迎えることになるのではないでしょうか。

3.リスクの構造

原発事故と住宅地での速やかな救出劇とは、極めて対照的です。
現代科学技術の英知を結集したはずの世界最大の原発では、火事や損壊の前に為すすべがなく、共同体社会が残る昔ながらの住宅地では被害に対して的確な人的対応が行われたのです。 近年“リスクマネジメント”ということが盛んに言われるようになりました。たしかに、柏崎原発の件は、リスクに対する備えが不十分であったと言ってしまえばそれまでです。
しかし、なぜリスクマネジメントがうまく機能しないのでしょうか。そこには、市民生活とは異なる企業経営上の事情があるように思われます。
そもそもリスクをコントロールするのは、その半面でより大きな“成果・業績”を挙げるためです。それはいわばコインの裏と表のように不可分一体のものです。言い換えれば、リスクコントロールへのコミットメントは、成果・業績へのコミットメントレベルに比例しているわけです。

4.マネジメントの脆弱化

では、電力会社の場合はどうなのでしょうか。今回の件を見ても分かるように、リスクの方は極めてはっきりしているのですが、その成果とは何なのでしょうか。安定的な電力供給でしょうか、原発等施設の開発を通じて電力供給量の増大でしょうか。どうもそのあたりが、普通の企業に比べると非常に曖昧な印象があります。
まず、第一に電力会社の収益を支えているのは、いうまでもなく電気料金なのですが、これ自体が競争的に決まっているというよりは、一定の「算式」によっていわば非競争的に上下するものです。原油やLNG価格が高騰したり人件費が上昇すると、それを価格に転嫁できる仕組みになっています。
次に電力供給の構造ですが、これは電力会社で完結しているというよりは、外注業者が複雑に組み合わさった姿をしています。例えば、今回事故のあった原発の中心部分である原子炉は、東芝や日立といった重電メーカーが作っています。また、街に張り巡らされた電線もほとんどは外注業者の手になるものです。さらに近年の電力自由化以降は、電力供給そのものが、電力会社以外の企業にも開放されています。

また、監督官庁である経済産業省は、今回の事故を受けて東京電力の社長を呼び出し叱責するなどしています。しかしながら、エネルギー開発というミッションにおいて、経済産業省はそもそも主体となってそれを担い推進する立場にあります。東京電力だけを一方的に叱責する姿は、自己の責任を隠蔽する行為にも見えます。
つまり、このような事実を総合すると、電力会社の社会的ミッションとは何か、そこで挙げるべき成果・業績とは何のかということが、非常に分かりにくくなっている構造があるのです。
コインの表側(=成果)が見えにくくなるにつれ、その裏側(=リスク)への視点も脆弱化していく命運にあります。今回の事故は、そのひとつの表れと見ておく必要があるのではないでしょうか。また、このように成果へのコミットメント低下に比例する形でリスクへのスタンスが脆弱化する構造は、他産業においても例外でないことを私たちは知っておくべきでしょう

キーワード紹介2 : “成果”

「成果」という用語が人材マネジメント分野において現在のような意味で使われるようになったのは、おそらくは成果主義人事が普及しはじめた90年代前半からです。成果主義自体は現在行き詰まりを見せていますが、この言葉の中身を今一度振り返っておくことには一定の意味があります。
現在では、「成果」は英語のperformanceの訳語として使われています。performanceは、純然たる結果を意味するresultとは異なり、その根拠となるプロセスを伴った結果という意味です。ですから、英語には、プロセスそのものにも近い「演奏」や「性能」という意味も含まれています。
したがって、成果として仕事の結果を見るということは、そのプロセスと合わせて結果を見る(=評価する)というスタンスを表明していることになるのです。ちなみに、この場合「プロセス」とは、大まかに言えば成果を生み出す過程です。詳細に見れば、そこには成果を生み出すための「能力」(≒コンピテンシー)、及びその具体的な現象形態としての「行動」「行為」といったことも含まれることになります。
単に結果を見るだけでなく、プロセスを合わせてみるというスタンスは、マネジメントにおいて重要なパラダイム転換をもたらします。
resultとして把握された結果は、単なる「点」に過ぎません。点で見るということは、例えば「売上高1億円」であれば、どのような異なる背景の中で生み出された結果であっても、その価値は全く同一です。一方、performanceとして把握される結果は、プロセスとの関係の中で把握されるので、構造的に認識されることになります。同じ「売上高1億円」でも、たまたま生み出された売上と、有効な営業プロセスの結果生み出された売上との間に、貢献価値の違いを顕在化させることができるのです。貢献価値の違いが把握されることで、その後のアクション(※営業施策)も全く異なった対応になってきます。
つまり、成果を見るということは、それを生み出す構造を明らかにし、ビジネスプロセスそのものの変革をマネジメントしていこうとするひとつの“意志”なのです。その結果、マネジメントは、単なる事実認識を超えたアクションを生み出すことによって、新たな力(≒価値)の創出に繋がっていくのです。



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